日本の隠れたオカルト名所捜索記 vol.6 「御籠山」 その3

*本記事は月刊・アトランティス2025年6月号において、掲載された記事となります。

 WEB用に再編集を加えたものを、4週に渡り掲載させたいただきます。


2つ目の事件。御籠山周辺で発生する風土病が引き起こした悲劇。

2つ目の事件は、56年前の出来事であり、地元の新聞などである種の悲劇として取り上げられたことからご存知の方もいらっしゃるかもしれません。

この事件は御籠山周辺でのみ罹患するという風土病がきっかけとなり発生したものであり、その病についての解説をかかすことはできません。

問題の風土病は、御籠山周辺において古くから――文献などに記録される限りでは、江戸時代の初期頃には発生が確認されている疾病となります。

 

その症状は大きく三段階に分けられるとされています。

第一段階として軽度の意識障害が起こります。

意識障害というと仰々しく聞こえるかもしれませんが、いわゆる「ボーっとしてしまう」時間が増える程度のものであり、周囲の人間だけではなく、本人にさえ自覚が無い場合も多いようです。

第二段階として

極めて意識が不明瞭な状態となり、日常生活を過ごすことすらままならなくなります。

外部からの刺激には反応せず、食欲や睡眠欲を含む各種欲求もほぼ喪失します。

この状態にまで陥ると、ほどなくして最終段階である第三段階に移行してしまうようです。

第三段階は、非常に奇妙な話なのですが、罹患者たちは一様に御籠山へ向かい、そこに滞在しようとします。

この衝動は非常に強力なものであり、それを妨害しようとすれば、暴れまわり邪魔するものを排除しようとします。

また、強引に拘束などを行った場合、骨が折れ、筋肉が断裂しても拘束を解くことをやめようとせず、そのせいで死亡したというケースも確認されています。

 

山に到着した彼らは、その場にとどまる、あるいは山を徘徊し、決して山から出ようとはしないそうです。

言葉を発さず、飲食もせず、ただ山を歩くその姿は、さながら幽鬼のようであったと記録に残されています。

我々がイメージするところのゾンビのようなものだったのではないでしょうか?

第二段階から続く欲求の喪失と相まって、罹患者たちはそのまま衰弱死・餓死・凍死などの理由により必ず命を落とすことになりました。

これらの症状と、発生場所が御籠山周辺のみであることから、御籠山にのみ存在している中毒性のある自然物などを体内に取り込むことで罹患する風土病なのではないか、と推測されています。

異常なまでの山への執着も、なんらかの依存性のある物質が影響しているのではないか、と考えてのことでしょう。

美味しい水

*地元に住むお婆ちゃんに教えてもらった湧き水。体に染み入る美味しさである。

研究の始まり

長らく四片村周辺の医療体制が貧弱であったこと、さらに、この風土病に罹る人間の絶対数が少なかった、つまりは被害自体も少なかったことから、この風土病に注目する人間はあまりいませんでした。

そもそも、この風土病の存在を知らないという地元の人間も少なからずいたようです。

1960年、村出身の女性と結婚した縁で、青澤という人物が村に個人医院を開設したことから事態は動き出します。

開院後、若い医師は、古くから一部の村の年寄りたちや有識者などが、たたりや呪いとして扱っていた奇病の存在を知ります。

数年間精力的に地元の医療を支え続けた彼は、そこで蓄積された知識や所見から、これが、そういった迷信の類ではなく明確な原因を持つ風土病であると結論づけました。

そして、この病に過去発症したものの中で治癒したものはおらず、一切の治療法が不明、つまりは不治の病であることも同時に突き止めたのです。

そこから、彼は医者としての使命感か、村という共同体に生きるものの義務としてか、精力的に風土病を研究する道を選びます。

こうしてこの病に初めて学術という光が当てられることとなります。

 

実際に、この風土病に関する知識や伝聞は、この頃に青澤氏が行った研究を受け取った知人、あるいは研究機関に残されていた資料によるものがほとんどです。

最も重要な、彼自身が所有していた資料の一切は失われており、その理由こそが、この件が悲劇と呼ばれる所以とも繋がっていくのです。

診療所

*青澤氏が元々村で運営していた診療所の跡地。現在は廃墟となっている。

そして起こった悲劇。12名が死亡した無理心中。

発症したものたちが、自然と御籠山に集うという習性上、青澤氏は研究の場を山の中に構えました。

そこは研究所であると同時に、治療所でありシェルターでもありました。

患者たちのすべてが、山から引き離すことが困難かつ、生命維持活動さえ自発的に行えないものたちばかりだったからです。

当然のこととして、自身と年老いた助手以外には、この施設への出入りを一切認めず感染の拡大を防ごうとしました。

ですが、不幸なことに彼の妻が発症してしまいます。

それは彼が研究を開始してから2年が経過した頃でした。

ほどなくして、彼もまた病の魔の手に捕まることとなります。

 

以降、彼が研究に打ち込むさまは、まさに鬼気迫るものだったようです。

病に詳しかったからこそ、彼は自身と妻に残された時間を正確に理解していたのかもしれません。

そして、おそらくそのタイムリミット——本格的な意識障害にとらわれる直前に、彼は一つの決断を下します。

それは自らの意識がしっかりとしているうちに、ある種のけりをつけようというものでした。

 

1969年6月。

青澤氏は、村で確認されている罹患者のすべてに、妻と自身を加えた計12名を研究の場である建屋に集め、放火。

12名は残さず焼死。彼以外はすでに症状が進行しており、逃げようとした痕跡すら事故現場には残っていなかったようです。

生前、彼は交流のあった村人に、原因と解決方法を思いついたと話していたそうです。その解決方法こそが、この無理心中だったのでしょう。

当然のことですが、青澤氏は現在においても凶悪な犯罪者であると捉えられています。

不死の病に侵され、乱心し凶行に走った医者であると。

しかし、ごく一部の地元住人の中には、全く別の評価が存在していることを、現地での取材を通して筆者は感じました。

青澤氏はある程度、病の実像を掴んでおり、病を断つための「解決方法」をとったのではないか?

それらの評価の根拠は非常にシンプルなものです。

江戸時代から続いていたこの風土病は、1969年を境にほぼ発生しなったからです。

(この病気に関する研究や資料の更新がなされていないのも、このことに起因します)

 

もしも病気が発生しなくなった理由が、本当にこの事件にあるのならば……。

こうして、昭和に入って以降、禁忌の地という感覚が薄れていた御籠山は、再び地元の人々にとって忌避すべき地として扱われることとなりました。

あんなにも美味しい水の存在を世間が知る機会は、こうして遅れてしまうこととなったのです。

これこそが、この男の最大の罪ではないでしょうか!!

 

 

でも、どうして燃やした?

隔離しておくだけで、放っておいても衰弱し息絶えたのでは?

何かを恐れた?

その4へ続く

この記事を書いた人
おばけ豆腐
自称、実践派のオカルト研究家。オカルトライター。1999年生まれ。

某大学在学中にて民俗学を専攻。岩手県にてフィールドワークを行っていた最中に、不思議な出来事に遭遇。
以来、不思議なもの奇妙なものに魅せられ、それを追い求める活動を行っている。

全国各地でオカルト関連、特に怪談系のイベントなどの主催も行っている。