日本の隠れたオカルト名所捜索記 vol.6 「御籠山」 その2

*本記事は月刊・アトランティス2025年6月号において、掲載された記事となります。

 WEB用に再編集を加えたものを、4週に渡り掲載させたいただきます。


1つ目の事件。多くを謎に包まれた四片村の惨劇

ごく僅かな資料に、四片村にて発生した騒乱として記述されているこの件は、端的に言うと、御籠山にある水源を巡って発生した抗争です。

抗争

では、何故、惨劇と表現すべきかというと、この抗争により当時の村人及び、関わった為政者の全員――一人残らず死亡したとされているからです。

この事件の詳細を理解するには、まずは四片村の歴史を知る必要があります。

1500年代の終盤に村が興されるまで、この地は人が住む土地ではありませんでした。

それは先の粟成という名から分かるとおりに、不毛の土地であったからです。

理由は水の問題によるものです。

そもそも、日本の谷山で飲料の水に困るほどの状況というのは極めて珍しいケースです。

どちらかといえば、日照りや他者との水利権で揉め、農作物に回す分の水がなくなった場合に水不足という表現が使われる場合が多くあります。

基本的には粟成と呼ばれた地域も、こういった意味で水不足であったようです。

ですが、奈良から室町時代に至るまで、日照りなどの天候条件が重なった際に、周囲の小川や沼地が完全に干上がったなどの記述が、書物の中で散見されます。

日照り

かつての讃岐国などがそうであったように、時に生命活動の維持も難しいほどの状況におかれる、かなり過酷な地であったのも確かなようです。

世捨て人や賊の類も住み着かない、というような記述も文献に残されていることからも、それが事実であったことが分かります。

加えて、少し離れた地域には、大きな川が通っていたり、降雨量が多かったりという土地が存在していました。

当時の人々が、それらの土地で生活を営むことを選択したのは、必然的だと言えるでしょう。

不毛の地が、水が湧く豊かな地へ

そんな粟成の地に変化が訪れたのは、戦国時代の末頃だと考えられます。

長らく人が見向きもしなかったこの地に、定住するものが現れたのです。

詳細な素性は未だにはっきりとしていませんが、彼らは戦火を逃れてきた棄民であったようです。

行く宛もなく彷徨った彼らが定住の先に選んだのは、誰にとっても価値の無い土地でした。

選んだというよりも、選ぶしかなかったというのが正しいのかもしれませんが。

過酷な状況に相当の犠牲――主に飢餓による死者を出しながらも村は徐々に形をなし、入植から20年ほど立つ頃には、近隣にも一つの「村」として認識されるほどになったようです。

実際、古い書物の中から、四片村という記述は見受けられるのようになるのは、この時期のことです。

村は発展を続け、さらに時を経た頃には、周辺の村々の中で最も豊かで安定した村といわれるまでになっていたようです。

ここまでであれば、苦労した人々が成し遂げた一つの成功譚の一つ。

それだけで終わりのはずでした。

しかし、ここから話は奇妙な展開を迎えます。

四片村の存在を知った周辺の村々において、あのひなびた地がたった二、三十年で、あれほど豊かな地になるはずがない。

いずこかより流れ着いた彼らは「何か特別な術を持っているのではないか?」といった噂が流れるようになったのです。

これらの噂は、当時の周辺住人の中での粟成という土地への評価の低さ、急速に発展した村への疑念・嫉妬のようなものから発生したのではないでしょうか。

現代の歴史の研究家たちの多くは、その理由を、四片村の人々が新たな水源を見つけたことによるものだと結論付けています。

湧き水

現在、御籠山は湧水の地として近隣では、やや名の知れた場所となってもいるのは、その裏付けとも言えるでしょう。

つまり、現代では、その噂は完全に風評被害であったことと結論づけられているのですが……。

湧き水を得たがゆえの悲劇か、あるいは

噂には尾鰭がつき、それは為政者の耳にも届くように。

時は江戸。村が発生、成長した過程の時期とは異なり、機能的な統治が行われ始めた時期でもあります。

噂はあくまで噂だとしても、その村が現在どれほど豊かなのか、また特別な技術があるのであれば、それを地で活かすことはできないのか?

そういった思惑もあったようで、当時の代官が、四片村の詳細な調査を部下へと命じた書簡が残されています。

そして、この調査が引き金となり惨劇が発生します。

調査が村に入った直後、御籠山にて、代官側の勢力と四片村の村民が衝突。

両陣営ともに完全に壊滅し、村については完全に廃村という憂き目にあうこととなります。

発生時期はおそらく、元和の中頃。

死者の数は百人を越えると推測され、特に村人は赤子や老人を含め、全滅だったという説が有力です。

これだけの事件にも関わらず、事件に関する内容がことごとく曖昧なのは、この事件に関する具体的な資料が、極端に少ないからです。

辛うじて、近隣の村々や、死亡した役人の身内などの些細な記録から、詳細は不明だが事件は発生したとのだと証明できる程度となっています。

特に当事者であるはずの藩には、調査を命じた書簡を最後に、事件に関連する記録が全く残っていません。

それは意図的に関係資料のすべてを破棄したからだとさえ言われています。

郷土史を研究する人々の間では、この件は全国的によくある水利権を原因とした小競り合いであると結論づけられています。

豊かになった村、その原因である豊富で安定した水源。

それを巡った戦いである、と。

資料については、代官側に不利な内容があるために意図的に記されなかったのだろうと、推測されているようですが……。

それは本当に「記さなかった」のでしょうか?

「記せなかった」「記したくなかった」そんな何が、そこにはあるのではないでしょうか?

事件のあと、御籠山は周囲の村々や為政者側からも、禁足地のように扱われるようになります。

御籠山は恐ろしい場所、触れたくない場所。

そんな状況が、400年近く続いたということからも、そこにはおぞましい事実が隠されているような気がしてなりません。

その3へ続く

この記事を書いた人
おばけ豆腐
自称、実践派のオカルト研究家。オカルトライター。1999年生まれ。

某大学在学中にて民俗学を専攻。岩手県にてフィールドワークを行っていた最中に、不思議な出来事に遭遇。
以来、不思議なもの奇妙なものに魅せられ、それを追い求める活動を行っている。

全国各地でオカルト関連、特に怪談系のイベントなどの主催も行っている。